◆◆◆◆音楽の記(四)
Music Essay no.4. (200611)
音楽批評・橋本努
このページは、私の趣味で音楽作品を紹介していくというコーナーです。お気に入りの音楽をランダムに批評していきます。皆様からいろいろなコメントをお寄せいただけると嬉しいです。
[61]
The
Georgian Voices
Elektra Nonesuch 1989
旧ロシアのグルジア共和国は、英語で発音すると「ジョージア」共和国。「ジョージアン・ボイス」とはつまり、ジョージア人の民族音楽のことだ。このアルバムはおそらく、男性合唱としては世界最高の水準であろう。崇高かつ血潮に満ちた男性合唱サウンドに、民族のプライドのすべてが賭けられている思いがする。日本でも親しまれている「ブルガリアン・ヴォイス」は女性合唱を本領とするが、こちらはすべて男声の合唱で、その表現力の豊さと厚みは、ブルガリアの女性に優るとも劣らない訓練と美学を備えている。総じて東欧諸国の民族音楽は、19世紀の国民国家期を経て、世界的に通用する音楽芸術の水準に高められてきた。さまざまな土地の、さまざまな生活をもった人々の声を編成していくという点に、編曲の面白さが光る。
[62]
Bill Bruford
The Sound of Surprise
(Bill Bruford’s Earth Works)
Discipline Global Mobile 2001
クリムゾンのドラマー、ビル・ブラフォードは、90年代頃から、独自のジャズ-ロック・サウンドを切り開いてきた。アース・ワークスと呼ばれる彼のプロジェクトがそれで、この2001年のアルバムでは、求めてきたサウンドが一気に爆発したと言えるだろう。メガ都市近郊のハイウェイを染める夕焼けをバックに踊る抽象的人体の彫像という、この感性溢れるジャケットは、中身の芸術性を裏切らない。この絵に感性をくすぐられたら、ジャケット買いをお奨めしたい。ドラミングの斬新なリズムと音色のすばらしさは言うまでもないが、ブラフォードは複雑なリズムに合わせて、独創的なベースラインと美しいメロディを織り込んでいく。ピアノ・ソロもすべて、一曲一曲のために独自の弾き方を開発したような出来映えだ。おそらくライブ演奏を通じて、かなり仕込みに時間をかけてきたのだろう。傑作推薦盤。他のアース・ワークスは見劣りするので要注意だ。
[63]
Best of Bellydance: from
Arc Music (
お腹や腰をひねって踊る妖艶な「ベリー-ダンス」は、西アジアからアフリカ北岸にわたって共有された文化の一つ。しかしこの踊りを甘く見ることなかれ。たんなる軽薄なポップ-ダンスだと思ったら、大間違いだ。むしろ王侯貴族たちの、悲劇的で崇高な運命を表現する芸術である。その品格は、スペインのフラメンコ-ダンスがもつ威厳と似ているが、フラメンコがアンダルシア地方の文化に根ざし、ギター一本で伴奏するのに対して、ベリー-ダンス音楽は、宮廷音楽家たちの楽隊を従えている。このベスト・アルバムでは、シンセサイザーまで用いられ、現代のベリー-ダンス音楽の到達点を伝えていよう。現代のイスラム圏の雄大な空間に広がる、激しくも荘厳な世界を一望できる一枚だ。
[64]
György Ligeti
György Ligeti Edition 1:
Strings Quartets and Duets
Arditti String Quartet
Sony 1996
「メタモルフォシス・ノクターン」。1953-54年にブダペストで書かれたこの四重奏は、共産主義独裁国家ハンガリーでは公に演奏されることを意図されていなかったという。当時は西側の書籍や音楽の情報がまったく入らず、しかも東欧諸国は互いに孤立し、東欧諸国の芸術家たちは共産主義の理想のために大衆をプロパガンダする作品を作るように求められていた。そのような抑圧的状況のもとで、リゲティは地下に沈潜し、真に革命的な現代音楽を生み出していった。当時のハンガリーでは、バルトークが国民的な作曲家として評価されていたものの、バルトークの多くの作品も演奏禁止。リゲティはそこで、演奏されたことのないバルトークの楽譜からインスピレーションを受け、この曲を完成させたというのだから驚きだ。現代音楽の「狂気」とはなにか。それはユートピアを実現しようとする大衆的社会運動の背後を襲う、人間の根源的な衝動なのかもしれない。
[65]
Junko Ueda (satsuma-biwa)
Japon: L’épopée des Heike
Archives internationals de musique populaire (Geneve) 1990
祇園精舎の鐘の音、盛者必衰の理をあらわす……。平家物語を語り継ぐ琵琶法師。鎌倉時代に大成した平曲は、江戸時代を経てさまざまな分派に分かれ、現在は前田流のみとなったが、他方で薩摩の琵琶は、明治時代以降に東京に進出して、三つの流派を築いていった。現代の平家物語を、薩摩琵琶法師のJunko Uedaさんのみずみずしい声で聴いてみると、これが実にストレートな歴史体験となる。同世代に語り掛ける迫真の声で、歴史を伝える生き証人がいまここに現れているようだ。激しくも様式化された日本語表現の美しさは、一つの完成した形態を生み出している。琵琶をバシバシと、しかもカキン、カシャン!と弾きまくるところがまたいい。
[66]
XUXU(しゅしゅ)
the B
Black 2005
日本人女性4人のアカペラによるビートルズの作品集であるが、まるで東洋発の現代音楽のようだ。発音が英語とは程遠く、声による伴奏の発声は、さまざまな実験的効果を試みる現代音楽的要素に満ちている。しかも空間を幽玄に演出するような囁きと、ゆったりとしたリズムがつづく。アレンジの異様さによって、ビートルズ的な日常世界から遥かかなたの、地球の裏の、心の裏の、内向的な精神の世界へと入りこんでしまったようだ。「カム・トゥギャザー」のアレンジは分かりやすい。しかし「ノルウェーの森」や「ヘイ・ジュード」はどうだ。まったく原型を留めない自由なアレンジによって、別世界を築いてしまっている。すべて一発録りであるが、細部を聞き分けると驚きに満ちている。5曲目の「イン・マイ・ライフ」などは、仏典の読経の世界だ。これは傑作。
[67]
Abed Azrié
Venessia
L’empreinte digitale 2000
怪しすぎるのに完成度も高い。ボヘミアン音楽のように流浪の人生を感じさせるのだけれども、サウンドは至って本格的で、リード・ヴォーカルの女性(Abed Azrié)はかなりの歌い手だ。流浪にして荘厳な、汚を聖によって浄化するような、すべてを許す決定的な場面に出くわすような、そんな歌い手だ。またリードを支えるバックの男性コーラスは、チベットの僧侶のように低い厚みのある声をいっせいに上げる。これがたまらない。僧侶のノリで、中近東のボヘミアンのような表現を試みるのだから、これはサスライ修行僧の御一行、ということだろうか。各種の太鼓の音色やバイブホンの使い方もまた幻想的で、悠々とした闇の世界を表現する。悲しくも美しい、裁かれた後の人生に対して、道しるべを与えよう、ということなのかもしれない。
[68]
Oki featuring Ando
Hankapuy
Chikar Studio 1999
アイヌ音楽の最高の到達点がここにある。これまでさまざまな民族音楽やロック・ダブ・ジャズなどの音楽とコラボレーションを重ねてきたオキは、アイヌの弦楽器トンコリの奏者であり、またアイヌ語の言霊を力強く表現することのできる類稀な声の持ち主だ。一方の安東ウメコは、アイヌ最高の歌い手であり、「イフンケ」というアルバムではアイヌの歌の魅力を余すところなく伝えている。そしてこの「ハンカプィ」では、現代アイヌ音楽を代表するこの二人が、さらにサックス・梅津和時氏やパーカッション・鈴木キヨシ氏を迎えて、コラボレーションを遂げている。これはもう、すべてをこの一枚に賭けているのである。この感動は、アイヌ人の歴史と文化の背景を考えるとき、涙なしでは語れない。もちろん純粋に音楽として聴いた場合にも、トンコリの独特な音色とその音階に、心を奪われるであろう。音の細やかな響きに至るまで、編集の才能も光る。北海道発の音楽として、私はこのアルバムを誇りに思う。
[69]
Viktoria Mullova
J.S. Bach, Bartok, Paganini: Works for Solo
Violin
Philips 1988
ソ連出身のヴィクトリア・ムローヴァ(1959-)の無伴奏ヴァイオリン作品集。やはり名盤であろう。完成された技巧表現でありながら、心に強く響く音楽の本質がここにある。卓越した技術を抑制の効いた表現に包みこみ、一度すべてを完成させた後に可能になるような、ある限界の高みへとさらに登るような意志があり、その高みに向かって、全身ですすんでいくムローヴァの姿に心を打たれる。基本を完成させるという、原点読解型のマスターを目指す芸術家たちの理想であるだろう。バッハからバルトークを経て、パガニーニに至るという基本ラインは、アリストテレス/プラトンからニーチェを経て、マキャベッリに至るような読解の魅力があり、基本から狂気へ至るための正攻法がここにある。本当の狂気とは、こうした演奏のラインにおいてこそ、現れるものなのだろう。
[70]
古我地
しみが原(Shimigabaru)
Monsoon Record 2004
タワーレコードの売込みでは、辻仁成と中山美穂が推奨しているというので(CDケースの広告にも二人の推薦文が書いてある)視聴してみた。これは本物だ!私ははじめて、心の底から感動するような沖縄の音楽に出会えたような気がする。古我地さんのデビューアルバムということだが、すでに40代を迎えた彼の声には、魂を揺さぶるような魅力があり、身体がはっと覚醒する。これまでにかなり歌いこんできたのであろう、存在の重低音を響かせるその声は、人生の喜びと悲しみがすべてつまっている。沖縄の子守唄には人生の本質が歌いこまれ、また戦争の悲哀を歌った唄には、近代日本の悲しさが結晶化されている。単純な楽器構成もまた心を捉える。古我地さんの補作詞による伝統民謡。いまのところこのアルバムが沖縄音楽の最高傑作ではないか。しみじみと、いい。
[71]
Rosario Giuliani
Mr. Dodo
Francis Dreyfus 2002
ロザリオ・ジュリアーニ(アルト・サックス)は、イタリア発のジャズのなかでも肉体派のパワーの持ち主で、脂ぎった野性を前面に出しながらも、その野性にすべての知性が追いついてくるという、驚くべき頭脳の持ち主でもある。硬い頭皮に覆われた鋭い目つき。圧倒的なパワーと表現欲がまずあって、そのうねりのなかで抜群のソロが展開する。ベースとのユニゾンで作られた複雑なメロディもすばらしい。ベースラインも手伝って、このアルバムは人生の足取りを、重低音によって包み込んでいくような挙動がある。小さなライブハウスで映えそうな演奏で、限られた観客しか寄せつけないような哀愁を感じさせもするが、しかし「ナニクソ、もっと行けるところまで突っ走れ!」という勇気を与えられもする。偶然与えられた小さな「場」こそ、人生を賭けるに値すると教えられる。
[72]
Andrew Hill
Black Fire
Blue Note 1963→2004 (24bit digital remastering)
エリック・ドルフィーの才能に感動したら、アンドリュー・ヒルのこの最高傑作にも唸るにちがいない。異色の鬼才ピアニストたるヒルは、結局、生涯をアンダーグラウンドなジャズを舞台に活躍しつづけたけれども、このアルバムはマチスの絵のように明快で斬新。ジョー・ヘンダーソンやロイ・ヘインズといったサイド・メンバーにも恵まれて、1963年にしては、いまだに色あせないオリジナリティを表現していることに驚かされる。ヒルは、セロニアス・モンクがそうであったように、変拍子のオリジナル曲を、大胆かつ綿密な構成でもって表現する。他の演奏家を寄せつけない独自の世界を築き上げようとするために、当時の主流からは敬遠されていた。彼はあまりにも早く生まれすぎたようだ。だが現代の感性は、ヒルのこのアルバムを金字塔として発掘するにちがいない。
[73]
David Friesen, Denny Zeitlin
Live at the Jazz Bakery
Intuition 1999
1996年のロス・アンジェルス録音ということで、アメリカにもこれほどまでに反アメリカ的な芸術的至高性を目指す文化風土があったのかと驚かされる。ウッドベースのフリーゼンと、ピアノのツァイトリンのデュオ・ライブ。あまりにも繊細で、病的なまでに細部の美しさにこだわった演奏だ。しかもこれにライブの白熱感と憑依感が加わって、二人の魂の鮮やかな緊張に、心が共振していく。二人のオリジナル曲の構成やメロディも、考え抜かれた魅力がある。とりわけツァイトリンのTriptychという曲は、最高の世界ではないだろうか。ツァイトリンは精神科の医者でもあったような気がするが、その知性とマッドネスが、透明なピアノの音色によって、ゆったりと、しかしシャープに昇華されていく。すでに安らぎを感じさせる前衛であり、奇を衒ったところがまるでないほど自然な表現だ。
[74]
Take 6
We wish you a Merry Christmas
Reprise 1999
クリスマス・シーズンと言えば、やはりこの一枚。アメリカのゴスペル音楽から生まれた最高の男性ヴォーカル・グループ、テイク・シックスのクリスマス・アルバムだ。一般にゴスペルのグループというと、メジャーで売りこむために無理をして、楽曲のバックの編成をかなり品のないポップな仕上げにしてしまうものが多い。テイク・シックスの他のアルバムもやはり幻滅してしまうのであるが、しかしこのアルバムはクリアな演奏で、聖なるアカペラの至上の音楽を届ける。アメリカの70年代に成功したアフリカ系中産階級の、ソウルフルなポップ音楽のルーツを背景に、現代のホワイトクリスマスを彩る音と声の、決定版といえる達成がここにある。アメリカ的生活なるものに胸がキュンとするとすれば、それはこうしたクリスマス的世界の詩情にこそあるのではないか。
[75]
Levent Yildirim
Levent
Le Chant du Monde (harmonia mundi) 2005
1968年、トルコの首都アンカラ生まれのレヴェント・イルディリムは、稀にみる超絶なパーカッショニスト。高校を卒業して少しアンカラの音楽学校に通った後に、フランス、エジプト、ドイツなどに移り住んでジャズ演奏家たちとさまざまコネクションを築いてきた。そしてすぐれた演奏家を集めて、卓越した魂を結集して録音したのがこのアルバムだ。静謐な囁きの織り成す繊細さと、疾風怒濤の速度が混在する。これは絶対の芸術であろう。無限の可能性を秘めたこの孤高の人は、音作りの徹底さにおいて抜きんでているだけでなく、同じく孤高の魅力をもつ音楽家たちの能力を引き出すことにも長けている。例えば男性ヴォーカルのAyaz Kapliの歌声は、中近東音楽の拳の効いた表現を巧みに練り上げる。エレキ・ベースのNurhast Sensesliはジャコ・パストリアスを超える奏者だ。スパニッシュ・ギターとインドのタブラという、いずも超絶技巧の遺産を、アフリカ系イスラムを通じてトルコにおいて融合した幽玄な世界が広がる。
[76]
Cassandra
Traveling Miles
Blue Note 1999
マイルス・デイビスの曲にカサンドラ・ウィルソンが詩をつけて歌う冒頭のRun The VooDoo Downからして、抜群のセンス。一流のミュージシャンを招きながらも、できるだけバックの音を殺ぎ落として厳選し、そこに自然体で囁くように歌うカサンドラの、「粋」な美学が心をとらえる。その意表を突いた独特な編曲手法に、彼女の洗練された探求心と内面性を窺い知ることができよう。カサンドラの別のアルバムはもっと商業的で、歌が上手いが何か欠けている。このアルバムはしかし、一線を超えた芸術作品だ。女性ヴォーカル・アルバムという安易なイメージは当てはまらない。むしろヴォーカルが一つの楽器となって他の楽器と複雑に掛け合いながら、マイルスの魂を自己流に解釈することに成功している。記念碑的な作品だ。カサンドラが囁くところはすべて、自分でも囁きたくなる。
[77]
Trio Rob Madona
I got it bad and that ain’t good
SAWANO 1976→?
長いあいだ中古レコード市場では「まぼろしの名盤」とされてきたピアノ・トリオが、澤野工房のおかげでCDで聴けるようになった。この「まぼろしの」という思い入れを外して聴いた場合、この演奏はある意味で、まっとうすぎるスタンダードな手法であるが、とくに70年代というジャズが解体していく時期には、流行に乗り遅れて埋もれてしまったのであろう。有名な演奏家たちがフュージョンやフリー・ジャズのような方向に向かっていった時期に、ロブ・マドナは正当な道を内面深く探求していった。なんといってもすばらしいのは、彼のピアノの音色だ。一つ一つの音に、美の鮮度をラップで包んで、それを人間の体温でサラッと転がしたような、そんな独特な魅力がある。音を手触りで楽しめるような演奏で、ゆったりと聴くことができる。
[78]
Virtuoso
Pablo 1973→2001
ジャズ・ギターの金字塔。私は高校生のときにはじめてこれを聴いて、求めるべきすべての境地がここにあるのではないかと感じたことがある。両手を頭の後ろに持ち上げて、背中の筋肉が抜け落ちて、それでひっくり返ってしまうような気分だった。アルバムの冒頭、コール・ポーターの曲をフルアコ・ジャズ・ギター一本で表現する「ナイト・アンド・デイ」の美しさは、いまでも鮮烈に、感性の襞を瑞々しく呼び起こす。ジャズ・ギターのコード進行とソロ展開を理論的に極限にまで追求しながらも、かつてオスカー・ピーターソンのピアノがそうであったように、演奏の躍動感とハーモニーのほうが際立つという「大成」の貫禄がある。繊細なハーモニーの複雑なパタンがこれでもかと連発されるうちに、心は耽美的な世界へと連れ去られてしまう。
[79]
Keith Jarrett
Standards Vol.1
ECM 1985
キース・ジャレットの名盤「ケルン・コンサート」は、魂が登っていくような霊感を感じさせるようなところがある。しかしこの宗教的な感覚は、なんども聴いているうちに霧消してしまい、かえって演奏の荒さだけが印象に残ってしまうことになるだろう。この霊感溢れるコンサートと比べるなら、「スタンダーズ」はもっと知的で静謐、芸術的な洗練さにおいて結晶化された作品だ。聴くたびに新たな発見があり、いつも心を洗われるような思いをする。長く聴かれるべき名盤であろう。抑制の効いたメロディ表現と、憑かれたようにグイグイとすすむソロ演奏が、一つの統一的な、透明感のある詩情を生み出している。とくにゲイリー・ピーコックのベースには、繊細なタッチが光る。
[80]
中村善郎
レンブランサ、エスペランサ(思い出、そして希望)
Sony
日本のジルベルトと呼ばれる中村善郎の、ギター弾き語りによるボサノヴァ・ソロ・アルバム。これはもう、中年のオジサンの理想であろう。どうせ人生の坂を下るのなら、こんなボサノヴァの語り口にこだわって生きていくのも「粋」ではないか。ブラジルでも評価の高い中村の歌い口は、ブラジルの感性そのものを体現したマエストロだ。ポルトガル語の歌詞を、独特の篭もったイントネーションで表現する点が味わい深い。中村はこれまでにソニーから4枚のアルバムを出しているが、このアルバムではその達成と思い出を、ソロ表現によって自己対話的な世界へと作り変えている。そのパーソナルな語りの世界を、思わず口ずさんでみたくなるような温かさがある。